夏は関西に住む姉と3人の娘たちが大分の実家に帰省する。
夏休みは実家で両親に力を借りるのは大変助かるものだ。
それに合わせて、我が家も娘たちを連れて車で片道およそ3時間をかけ帰省し、貴重な交流をさせるのがここのところの慣例だ。
交流するといっても、今年の夏も例に漏れず猛暑で、外で遊ぶなんてことはとてもじゃないができない。
この暑さのなかでスポーツをやっている人、純粋に心配になってしまう…大丈夫なのか?
とんでもない暑さなので、我が家は初日には夏休みのアニメ映画を観にいき、2日目は、無料で利用することができる児童館で遊ぶことにした。
どちらも屋内でエアコンが効いていたので、選択は間違っていなかったと確信した。
ドアからドアに行くだけでも恐ろしい暑さ。
一歩外にでるだけで、ドッと汗が皮膚に浮かび上がるのが本当にわかる。
帰省した時間が昼を過ぎていたので、映画が終わると晩御飯の時間が迫っていた。
今回の帰省、夜の食事は近所の居酒屋で食事をすることになったのだが、そこでふと両親から聞いた近況に驚きと寂しさを感じさせられることとなった。
私は学生時代、高校3年生まで野球をやっていたのだが、そのころお世話になっていた同級生のお父さんがいた。
シロウ君のお父さんなので、「シロじい」と呼ぼう。
シロじいは、口ひげを生やし、野球に詳しく、指導もしてくれたおっちゃんだ。
シロウ君と私は同級生で、シロじいとウチの父も同い年だった。
聞かされた近況というのは、そのシロじいがつい最近亡くなったということだ。
私の記憶のシロじいは、私が高校生の頃、つまりおよそ20年前で、50歳くらいのおじちゃんだ。
50歳といえばまだ若く、ハツラツと活動されている方なんかもまだまだたくさんいる年ごろだと思う。
そのシロじいは、父と同い年のシロじいは、ガンで亡くなった。
今年、祖母が亡くなったときは、まだすんなり受け入れることができた。
高齢であり、たくさん病気もしていたし、来たるべきときがきたのだと。
ただ、シロじいの訃報は違った。
自分の父と同い年だからだ。
ふと、近しい人の寿命というものを意識したとき、強い恐怖におそわれる。ただただ怖い。
数年前、父が脳出血で入院したことや、今年中には大動脈瘤の手術を予定していたり、母が胆石の手術をしたときに偶然肝臓がんがみつかったりと、たしかに病気がどんどん迫っていることは感じている。
しかし、死というものが意識に入ってくると、別次元の恐ろしさが湧いてくるのだとわかった。
まだ心は準備ができていない。
ただ、この話に心を揺さぶられたことで、再認識した。
一度きりの人生、残された時間はそう多くはないということ。
ふだん仕事で余裕なく働いていたり、家事でバタバタしている毎日。
気づいたら一ヶ月、半年、そして一年。
どれだけの日を、どれだけの時間を意識して過ごしたかな。
欲をいえば、全ての時間で意識していたいと思うけど、それは人間にはできないのではないかなと思う。
今回実家に帰ったときだって、一分一秒を噛み締めたわけではない。
それでも、目の前にいる家族、友人、同僚たちと過ごしているこの瞬間を、誰よりも素晴らしいものにしていこうと思う。
たくさん笑おう!
常にそうならなくてもいい。
それを自覚して、たまに実行にうつせれば少なくとも幸せだ。
最近読んだよしもとばなな先生の本に、正確ではないかもしれないがこのようなメッセージが書いてあった。
「最後に持っていけるのは思い出だけ」
ほんと、そうだよ。
今日あなたはどれだけ自覚しただろうか?
これが習慣にできるかはわからないけれど、今後のありたい自分として、
「残された時間はそんなにない」って意識しながら、行動にうつしていきたいと思う。
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